西日本支部第58回例会

※終了しました

日時:2023年12月17日(日) 14:00〜17:00

会場:神戸大学鶴甲第二キャンパスC101

司会:大田美佐子(神戸大学)

【ラウンドテーブル】

『音楽文化研究とアーカイブ』


(1)大田美佐子(神戸大学)
「音楽文化研究にとってのアーカイブ/トランスナショナルな音楽文化研究にとって
のアーカイブ」

発表要旨
  発表者は本企画の発案者として、いくつかの具体的な研究例から「アーカイブ文化」を可能にしているの
は、史料を介した主体的な人々の関わりである、という自らの体験を紹介し、アーカイブをめぐる問題提起
を行った。
 研究の具体例の一つ目は、戦時のプロパガンダと原典の改竄のプロセスを明らかにしたヨハン・シュトラ
ウス一世の「ドイツ統一のマーチ」の研究(1997)である。この研究の契機は、偶然にウィーン市立文書館で見
つけた1848 年と1938 年の版の異なる楽譜の存在であった。二つ目は、亡命作曲家の散逸した史料を把握す
るために、没後に設立された作曲家の財団が大きな役割を果たしてきた「クルト・ヴァイル研究」をめぐる
アーカイブの状況についてである。そして三つ目と四つ目は、研究者間の国際的な対話を通して、音楽の営
みをトランスナショナルに捉え直す二つの国際共同研究、「1953 年のマリアン・アンダーソンの来日ツアー」
と「占領期の音楽を通した日米文化交流」である。これらの研究はドイツ、オーストリア、アメリカ、日本
のアーカイブで行われてきたが、特にこの国際共同研究を通じて感じたのは、ハーバード大学での成熟した
アーカイブ文化のインパクトであった。Houghton Library では、アーキビストと研究者相互の交流を育む機
会が定期的に設けられていて、実際の研究のサポートを受ける機会のみならず、そうした出会いを前提とし
て交流を育んできた「アーカイブ文化」の豊かさに感銘を受けた。
 これらを通して本発表で提起した問題点は以下の二点である。アーカイブへのアプローチ、プロセス自体
が、研究のコンテクストのみならず、インパクトともなり得ることから、研究者とアーカイブとのフィジカ
ルな関わりの重要性を伝えること。具体的には、大学とアーカイブが協働し、アーカイブ教育のプログラム
を行うなどの展開が考えられる。そして、二点目は、史料の価値を人から人へと繋ぐ一次資料の提供の仕方、
史料の扱い方などの教育の必要性から、「音楽専門アーキビスト」の人材育成の重要性と同時に、アーカイブ
の公共性への社会的な理解を求めていくことである。
 アーカイブの存在は過去・現在・未来を繋ぐ歴史研究の根幹であるが、他の登壇者の発表、質疑応答、後
半のディスカッションでは、デジタルの利便さとともに、多層的な情報を含む「紙」の普遍的な存在感があ
らためて浮かび上がった。空間、公共性に広がりをもつデジタルアーカイブと、その強烈なインパクトから
個々の研究の物語を立ち上げるフィジカルな史料との出会いは、両方ともに俯瞰的な視野を必要とする音楽
文化研究にとって重要であることをあらためて感じた。


(2)西村理(大阪音楽大学)
「戦前の大阪の音楽文化研究におけるアーカイブ」

発表要旨
 発表者は、戦前の大阪放送局(JOBK)のラジオ放送の芸術音楽の番組を軸にして研究を行ってきた。本発
表では、この一連の研究過程で利用してきたアーカイブを、(1)ラジオ番組に関するもの、(2)番組の出演
者や出演団体に関するもの、(3)当時の大阪に関するものに分けて紹介し、今後の課題を提起した。
ラジオ番組に関するアーカイブとしてNHK 放送博物館がある。同博物館には、大阪放送局(JOBK)および
東京放送局(JOAK)の『番組確定表』が所蔵されている。『番組確定表』は実際に放送された記録ではない。
実際の記録である『洋楽放送記録』はJOAK のみ残されている。
 『番組確定表』や『洋楽放送記録』は出演者や出演団体が記載されているだけであるため、出演者や出演
団体に関する資料が必要となる。具体的には各新聞のラジオ欄やラジオ専門紙である。新聞は国立国会図書
館の新聞資料室に所蔵されている。『毎日新聞』(毎索)、『朝日新聞』(朝日新聞クロスサーチ)、『読売新聞』
(ヨミダス歴史館)の各紙は、記事データベースで公開されている。なお『読売新聞』は 1928 年から大阪版
もあったことは広告から分かっているものの、「ヨミダス歴史館」に大阪版は含まれていない。大阪の地方新
聞として『大阪時事新報』、ラジオ専門紙として『日刊ラジオ新聞』がある。
 番組の出演者や出演団体に関する情報は、演奏会に関する資料からも得られる。「国会図書館デジタルコレ
クション」の本文検索によって、音楽雑誌等に掲載されている情報が容易に検索できる。阪急文化財団(池
田文庫)や三木楽器が所蔵している演奏会に関する資料に加え、大阪音楽大学が保存している演奏会パンフ
レットがある。
 最後に当時の大阪に関するアーカイブとして大阪市立図書館デジタルアーカイブがある。写真や絵はがき、
地図がデジタル化され、公開されており、戦前の大阪という都市空間のなかで音楽文化を捉えようとする際
に用いる。
 以上の3つに分けて紹介した各機関のアーカイブには、デジタル化されていない資料、デジタル化されて
いる資料、デジタル化されてインターネットで公開されている資料がある。保存の観点から資料がデジタル
化すること、さらに資料は公共のものであるという考えに基づき、デジタル化した資料をインターネットで
公開していくことが必要である。その一方で、デジタル化するための費用や公開プラットフォームを維持す
るための費用が課題となる。

(3)沢知恵(歌手・コモエスタ代表)
「声なき声をのこすために
――ハンセン病療養所の音楽文化研究の現場から――」

発表要旨
 1907 年に始まった日本のハンセン病隔離政策にようやく終止符が打たれたのは、「らい予防法」が廃止さ
れた1996 年である。終焉期を迎えた全国13 か所の国立ハンセン病療養所はいま、何をどうのこしてゆくか
の課題に直面している。
 厚生労働省管轄でありながら、長い歴史をもつ各療養所は運営方針が異なり、医療カルテを含むアーカイ
ブの扱いには統一されたルールがない。2011 年に施行された公文書管理法により議論が始まったところだ。
国賠訴訟において、弁護団を中心に被害の実態を検証するための資料が数多く公開されたが、集約されては
おらず、散逸の危機がある。また、公文書以外の日記、手紙、写真、絵画、演奏や歌唱がおさめられている音
源、映像、楽器などは、その人が亡くなるとほとんどが廃棄される。特に音楽は個人の趣味と捉えられ、音
楽文化研究のためのアーカイブとしての価値は軽視される傾向がある。故人が生前の遺志として資料館に納
めると、今度は開示が困難になり死蔵のおそれもある。開示については、差別へのおそれから個人情報の扱
いが大きな壁となるため、厚労省と二項関係にある全国ハンセン病療養所入所者協議会は、専門家の意見も
ふまえた上で、最後の当事者としての見解を出すべきである。
 実際的には、国立ハンセン病資料館をはじめ全国の療養所の学芸員が担う仕事になるだろう。しかし、現
状では学芸員の資質も人数もじゅうぶんとはいえない。厚労省から受託されている笹川保健財団の姿勢も問
われる。
 「アーカイブとは、単に歴史を書くために一方的に活用される資料ではなく、それ自体に主体性を保有し
た存在として、その権力性が問われる。ある過去について何を言うことができ、何を言うことができないか、
誰の声が歴史として認められ、どの出来事が記憶に値するのか、アーカイブは過去の門番よろしく、管理す
るのだ」(榎本、2023)。
 ハンセン病を生きた人の声なき声をのこすためには、制度面での課題を解決すると同時に、語り継ぐひと
りひとりが、研究者であれ表現者であれ、誠実さと敬意をもってアーカイブに対してゆくことに尽きる。そ
の誠実さとは、人権に配慮しながらも、過度な束縛、自制、躊躇を意味するものではない。「体験者の意図=
内面を絶対化するのではなく、むしろ、そこから離れた自由で多様な引用という「協働作業」」(平田、2024)
は、健全で開かれた批評によって真の創造性へと結実してゆくであろう。
引用文献
サイディア・ハートマン、榎本空訳(2023)『母を失うこと 大西洋奴隷航路をたどる旅』晶文社。
平田仁胤(2024)「被爆証言に臨む倫理に向けて:ウィトゲンシュタインおよびデリダ=サール論争から」『教
育哲学研究』第128 号。

(4)上田泰史(京都大学)
「デジタルアーカイヴと19 世紀音楽研究
――そのインパクトと可能性――」

発表要旨
 本発表は、フランスの国立文書館をめぐり、その創設・再編経緯、および 2013 年以降急速に整備が進んだ
デジタルアーカイヴ化の状況を紹介し、それが一利用者たる発表者の研究にもたらした影響を提示すことを
目的としている。
 パリにあるフランス国立文書館は現在、中央文書館(略称 CARAN)とピエールフィット・シュル・セー
ヌ分館(以下ピエールフィト館と略す)の2館に歴史的文書が集約されている。同文書館の創設は 1790 年に
遡る。現在の中央文書館が入るマレ地区のスービーズ館に行政文書が集約され始めたのは第一帝政期(1808
年)以降のことである。復古王政時代の重要な出来事は、フランス国立古文書学校(École des chartes)の
創設(1821 年)である。アーカイヴィストの養成を目的とするこの学校では、古書体学、考古学、文献学、
法制史の講義など学際的な教育が行われた(現在も存続している)。同学校の設置は、復古王政下のフランス
で高まった国史への関心および 1830 年前後に興隆を見せたロマン主義における中世への文化的関心を背景
としている。
 現在の中央文書館は、公証人が作成した証書類の他、大革命(1789 年)より前の公文書を収める一方、ピ
エールフィット館(2013 年開館)は大革命後の公文書を収蔵している。ピエールフィット館の開館とともに、
デジタル利便性が飛躍的に向上した。 SVI (Salle virtuelle des inventaires)と呼ばれる資料目録検索ペー
ジでは、 PDF 化された31000 冊の資料目録のみならず、 1000 万件の文書画像が閲覧できる(2023 年現在)。
また、EAD(符号化記録史料記述)と呼ばれる国際標準の検索フォーマットに基づいて表示される最新の史
料情報や参考文献一覧もウェブ上で閲読できるようになった。
 次に、発表者が 2009 年以来継続しているパリ国立音楽院ピアノ科定期試験演奏楽曲データベース構築プ
ロジェクト(1842 年~1956 年)を例に挙げ、史料状況を具体的に提示しながら、同文書館の史料のデジタ
ル画像公開が、いかにして曲目転写作業の効率化に寄与したのかを、作業プロセスと制作したオンラインデ
ータベース(ピティナ音楽研究所ウェブサイトで公開)を提示しながら説明した。
 最後に、フランスにおける機関横断的な音楽資料公開プロジェクトの一例として、 「19 世紀フランス音
楽公教育, 1795-1914」(HEMEF)を挙げ、国立文書館が所蔵するパリ国立音楽院修了選抜試験の初見演奏課
題楽譜史料の電子データ公開について事例を紹介した。この史料群は、同音楽院(現 CNSMDP) 附属メデ
ィアテークのウェブサイト上で閲覧・検索できる。その中から、ルイ・アダン教授(1758~1848)の初見課
題曲の音源(演奏:飯島聡史)を聴いて発表を締めくくった。